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入手困難!福島・会津のプレミア酒『飛露喜』の魅力に迫る

いまや誰もが知る日本酒の有名ブランド、飛露喜(ひろき)
2000年代の日本酒ブームを代表する銘柄の一つで、定価購入が出来ないこともあるほど、プレミアがついたお酒です。

もはや日本酒界の巨匠ともいえる飛露喜ですが、現在の成功からは想像もできないような、厳しい時代を経験しています。
飛露喜にまつわるストーリーを知れば、もっと飛露喜が好きになる。今回は飛露喜について、誕生までの秘話やおすすめの銘柄をご紹介します。

飛露喜ってどんなお酒?


福島会津のお酒で、地元でも手に入りにくい飛露喜。蔵元さんの「濃密な透明感のある、存在感のある酒を造りたい」という言葉通り、存在感がありつつ、スッキリとした切れのある日本酒。料理にも合い、特に和食の味を邪魔せず双方のいい関係を作り出すのが特徴です。

その多くには、会津坂下町や隣接する喜多方市で採れた酒米が使われています。ワインのように、その土地の風土を酒に織り込むこと、「会津のにおいを酒に落とし込むこと」が心がけられているそうです。
また、原料処理が大切にされていて、すべての商品において限定吸水(吟醸酒など高級酒の製造時に行われる方法で、洗米時などに水を吸水しすぎないよう時間を制限すること)が行われています。また超低温発酵、低温熟成によって醸されており、これがすっきりした味わいを実現しているのでしょう。

会津坂下町「廣木酒造」の復活劇

いまでこそ誰もが知る酒となった飛露喜ですが、誕生したのは1999年と、割と最近のこと。
それまでは飛露喜を造る「廣木酒造」は、成功から程遠い逆境にありました。酒造はどのようにしてこの逆境を乗り越え、飛露喜を作り出したのでしょう。

●当時の時代背景

「廣木酒造」は、福島県の会津坂下(ばんげ)町の、江戸時代中期から続く老舗です。
飛露喜が誕生する以前の1990年代までは、日本酒といえば”地酒”よりも大手のつくる酒が一般的でした。また、杜氏の高齢化によって日本酒業界全体が危機に瀕していた時代です。

●逆境の始まり

そんな時代に当初はサラリーマンとして働いていた健司氏ですが、一度くらいは酒造りをと、実家に戻ります。
しかしその後は苦難の連続。昔から来ていた杜氏が引退し、追い打ちをかけるように父が急逝。健司氏にとっては、酒の造り方も流通ルートもわからない中での酒造りで、蔵をたたむことも考えたそうです。

●転機の訪れ

転機は、NHKの取材でした。当時の健司氏は、『杜氏はいない、親父は前年に亡くなった。もう家に火をつけたい』と言って悲壮感が漂っていたそうです。

しかし、番組の放送後東京の地酒専門店の店主から「本気でおいしい酒を造りたいなら応援する」と電話がかかってきました。はじめに納品したお酒は「箸にも棒にも掛からない」とまで言われたそう。そこから健司氏の本気の酒造りが始まります。

1年後、熱処理前の酒を試してみたところ、自分でも「これはうまい」と思えるものができたと語ります。これを日本酒専門店に数本を送ったところ、当初30本も売れればと思っていたのが、結局3千本にまで注文が伸びたのです。これが「泉川 特別純米 無濾過生原酒」、後の飛露喜(1999年に改名)の始まりです。

かつては“火入れ前”の酒を出荷するという発想はありませんでしたが、酒造りの経験が浅く、業界の常識にとらわれなかった健司氏ならではの行動です。

今ではよく見る『無濾過生原酒』ですが、一般に浸透するきっかけは『飛露喜』であったと言われます。

●飛露喜の飛躍

一瞬にして爆発的な人気を得た飛露喜ですが、健司氏はこれを一過性のものにしないため、そして無濾過生原酒のようなデリケートな酒のみに頼らないため、さまざまな研究と努力を重ねます。

生酒の劣化を防ぐための冷蔵設備を導入し、熱処理をした酒でも「飛露喜」ならではの味を出せるように努力が重ねられました。洗米から仕込み、搾りまで、従来の設備に次々と手を加え、改良をし、流通方法にもこだわります。計画の段階から出荷量、割り当てを決めることで、酒の味を損なうことなく消費者に届けられるようになりました。

こうして飛露喜は全国的に人気のお酒として、今でもそのつきぬけたポジションを維持し続けているのです。

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